分子生物学は私達が以前から疑問に思っていたこと、つまり生物の個体究生を時間的空間的に制御する遺伝子の存在を証明してくれた。現在のところ、発生の過程において、生物個体の構築を時間的に適切に展開して制御している遺伝子についてはほとんど知られていない。この領域での知識としては細胞に分子時計があるということくらいである。一方、空間的な発生についてのデータは、これもまたショウジョウバエの研究から生まれた。
ショウジョウバエのゲノムの中には発生と分化を指令する設計書を制御するホメオティック遺伝子と呼ばれる遺伝子があり、したがってこれらは動物の構造のデザインに基本的な役割を果たしていることが発見されたのである。
これらの遺伝子が正常に働けば脚、翅、頭、腹などが正しい位置に均整がとれた形で発達する。しかし、このような遺伝子が侵されると~これは実験室の条件下で誘導できるが~、本来触角がある場所に脚が生えたり、また胸部が二つになったりといった具合の悪いことが色々起こるのである。
ショウジョウバエのホメオティック遺伝子の全てに、ホメオボックスと呼ばれる短いDNA配列のあることもわかった。後に、このホメオボックス配列はショウジョウバエに限らず人間を含む哺乳類、両生類、鳥類などに広く見いだされた。高等動物では体の構造を作り上げている遺伝子の構成は非常に複雑であると考えられるが、ホメオティック遺伝子の研究を続けると近い将来、何故、どのようにして、目や鼻やロや耳が顔の正しい位置にでき、足は脚の先にできるか、そして、人間の赤ん坊は猿やカエルより人間の大人に似ているかが分かるようになるだろう。
遺伝子レベルでの生物の発生と変動についての疑問が、次のような更に根本的な疑問を生んだ。もしDNAが全ての生物で同じ化学構造を持っているならば、どうしてもっと違った生物種が生まれないのだろうか。なぜ人間と馬のキメラであるケンタウロスが見られないのだろうか。次に示した、種についての二つの定義の中に、その答えがある。一つの種は自然条件下で子供を産んで繁殖し子孫を残していける個体の群れからなっている。また、一つの種は個体間で遺伝子を交換できるような集団とみなされる。
異種間の繁殖ができないのは三つの障壁があるためである。つまり地理的な障壁、解剖学的な障壁、そしてもっとも越えがたいものとして、分子レベルでの遺伝的障壁が立ちはだかっている。異なった種の遺伝テキス卜は、文章としては共通点があるが、それを働かせる仕組み、つまり遺伝子の制御機構が種ごとに異なっているのである。この点については、まだ詳しいことは分かっていないが、その解明の鍵は遺伝子以外のDNA、先にジャンクDNAと呼んだ部分に隠されているのではなかろうか。異なった種のDNA塩基配列上の違いはたかだか15~20%に過ぎない。また、非常に興味あることに、人間とチンパンジーのDNAを比べると、その塩基配列はわずかに1%しか違わないのである。ただしこれは今までに調べられた通常の遺伝子に当てはまるとで、遺伝子としてのDNAは高等動物ではゲノム全体の3~5%程度しか過ぎず、残りの95~97%の遺伝子間配列の多くは、つまりジャンクDNAである。遺伝子内及び遺伝子間を考慮に入れると、人間とチンパンジーのDNAの全体としての塩基配列の違いは15~20%になると見られている。
DNAの完全性は、DNAの複製機構で起こった誤りを訂正して修復してしまう酵素の働きによって保たれている。ただし、ごく小さい誤りが修正されずに残る場合があり、それがDNAの変異となる。この修復機能を人為的に失わせると、1億5,000万年かけて共通の祖先から分かれた二種の細菌から新しい細菌を実験室内で短時間のうちに作り出すことができる。現にネズミチフス菌(サルモネラ)と大腸菌(エシェリヒア)でDNAの修復機構を不活性化することにより、サルモリキアと呼ばれる細菌を作り出すことに成功している。類似の実験を高等動物で行うのは技術的に実現困難であろう。