何もかもうまくいかない時がある。そんな時は、世の中との折り合いが悪くなったように感じる。そこで世間にうまく適応しようとそれまで以上に努カする。ところが事態は悪くなるばかりである。うまくやろうと思えば思うほど挫折感が強まるのは、外の世界に適応しようとすればするほど心の中が空疎になるからだ。万事調子が悪いのは、世の中ではなく、自分との折り合いが悪いせいだったかもしれない。
人は自分の世界を生きる。そこは目や耳、手足などの身体感覚や直感、無意識がつかみとったイキイキとした世界である。言葉や理屈が姿を消し、感情までが半分眠っている。天気の良い日に丘にのぼり、ぽんやり遠くの海を眺めている時がこんな気分だろう。
もっとも、人は内世界だけを生きているのではない。言葉を通して自分の内側に外世界を投影させている。内と外に引き裂かれた世界は、意識と無意識、自然と非自然などの二重構造や主観と客観、個と全体、精神と物質などの絶対矛盾を生み出し、人はこの二元論の葛藤から逃れられない存在となった。調子が悪いのは、この二つの世界の調整がうまく行っていないからである。
「私は私である」の「私」は、単独者として生きる私と、世界の一員としての私がイコールだという。私が私であることと、私が世界の一員であることが釣り合ってこそ正気だが、それは言葉や意識の外世界と、直観や無意識の内世界が等位であるということに外ならない。
ところが人は、外世界への適応に忙しく、内世界に余り目を向けない。意識や言葉を操ることばかりに熱心だった人間は「沈黙する内面」と付き合うことを忘れてしまい、内世界を無のレベルにまで落としてしまった。内世界がペチャンコになると外世界も消滅する。フランクルが「自分の中が無になると世界が破滅する」と言ったのは、まさしくそのことだったのである。
その時人は、意識や言葉を過剰に用いる。人は言語的な思考で世界が了解できると思い込んでいるのだ。しかしそれは、常に裏切られる。内世界は、言葉とは無関係に存在するからである。ところが人は、裏切られるほど一層言葉にしがみつく。理由を言葉の中に求める以外、方法を知らないからである。
意識や言葉は、合理の体系からなっている。何事にも理由があり、しかるべき理由に見合ったしかるべき結果が生じると考える。しかし、人間も世界も、合理の法則だけに沿って動くとは限らない。人間には意志という非合理の第一原因が備わっており、「始めにロゴスありき」ではないのだ。意識や言葉でカバーできるのは、その中のほんの一部分である。
人が意識や言葉を用いて世界を了解し得るのは、合理的・法則的な外観に関する限りのことであり、それは世界の全てではない。
凶悪犯罪が起きると、識者はストレスや社会のせいにする。事件背後にある原因や背景を分折し得々と因果関係を述べ立てる。世界の出来事は全て理由が在って結果が在るというのだが、この決定論の罠に落ちると、人は決定的に愚かになる。