壮年になっても、仕事に趣味に忙しい気の若い人がいる反面、若いくせに老けたムードを漂わせる人もいる。覇気がない、可愛気がない、やることがない、というタイプである。パソコン・携帯等物質は全て持っているが、これは他人が持っているから持っているだけだ。彼女も、いるようでいないようで、結局未だ独身。かといって気に病むわけでもない。濃縮ジュースを水で薄めたような人生を送っている。

同じ世界を生きていながら、何故こうも生き方が違うのか。

世界が違うからである。

世界で起きる出来事の受け止め方が全ての人にとって一様ではない理由は、それが全て個人の中に生じるものだからである。心の中の世界がイキイキとしていれば、眼前の風景が子供の夏休みの日々のように映るが、水で薄めたような精神なら、老人ホームの窓から臨めたようなわびしい景色となる。

雨が降ると、誰もが同じように「雨が降ってる」と感じる。ところが、これに個人差がある。釣りに行く人には「いやな雨だぜ」だが、農家には「恵みの雨」かも知れない。「雨が降る」という一般現象が各々の主観の中で特殊な経験に変わるのである。

A選手がオリンビックで金メタルをとったという事実も、選手本人、コ—チ、Aの恋人や家族、忠援する同国人、負けた選手、ライバルではそれぞれ受け止め方が異なる。世界で起きる環末事が劇的な出来事となるのは、体験する人々の中においてであり、しかもそれは、個人によって全く異なったものとなる。

世界は、個人の主観に映じるものに過ぎず、同一規格の世界など、どこにもない。

人は絶対世界に適応していると思っている。ところがそれは、自分の世界に適応していたに過ぎない。いわば、自己適応である。外世界そのものではなく、それが内世界に映じたものに適応している。人は也人の存在を過分に気にかけ、状況に敏感に反応し、駆け引きに夢中になる。しかしそれは、全て自分の中で起きていることなのである。

人は世界ではなく、自分自身の世界を生きている。このとき大事なのは、世界と対応する「自我」である。自我が薄めたジュースなら、世界も希薄なものとなり、その人生は味気ないことこの上ない。自我がなくとも、反応は可能である。いやむしろ、学習や反復強制、模倣や擬態などの自我を通さない、反応の方が抵抗なく受けいられる。と言うわけで今世界には「空疎な反応」が蔓延している。パターン思考やマニュアル通りの反応、血や感情が通わない条件反射がまかり通っているのである。

自分がないまま考え、マニュアル通りの行動を起こすと「ボクってなあに?」という空しい気分につきまとわれる。家では母親のいうことをよく聞く 「良い子」に育てられ、学校では「勉強が出来る子」であろうとした子どもは、生々しい自我を失い、実社会に出ても人間味が消えたロボット人間になってしまいかねない。人は主観的には「世界が自分を中心に配列されている。」と感じている。それが自我の真の姿なのだが、彼らはそう見ない。世界が自分の外に在って自分はそこに連なっているにすぎないと考えてしまうのだ。