小さな子供に「将来何に成りたい?」と尋ねると『社長』や『野球選手』などという無邪気な答えが返って来る。こんな時、彼らの目はキラキラと輝いている。未来をイメージすることが楽しくて仕方がないのだ。最返の若者が夢を持てなくなったのは、未来に希望を見いだせないからではなく、人生をイメージするパワーが衰弱したせいかもしれない。

日本人が好きな言葉のベスト3は、夢・希望・未来だという。日本では「希望があるから生きていける」「夢がなければ人生は灰色」「未来に向かって!」と言った表現が好まれる。高校の文化祭の標語にも、この三語が使われる。本当に人は明るい未来や将来のビジョンがなければ生きていけないものなのであろうか。

否である。人は、せいぜい数日から1週間先のことしか頭に思い浮かべず、未来のことなど知っちゃいないからである。未来には、希望ではなく、死や老い、絶望等に対する不安しかない。そんな不吉なものに思いをはせる必要がいったいどこにあるだろう。私達が元気に生きていけるのは、せいぜい、数日先のことしか頭にないからである。

フロイトは、不安について「それが解消されると、全てが好転すると思える。大きな謎である。」と述べ、ハイデガーは「不安の正体は無である」と言った。人は、少なくとも大人は希望に向かってではなく、不安から逃れるために生きている、と言って差し支えない。

不安の過去形は後悔、現在形は怠情や逃避、未来形は自堕落と、心に巣食う原不安は時間を超えた心理的重圧となってのしかかってくる。従って「未来のことなど知っちゃいない」と開き直っておくか、希望は、せいぜい数週間先のことに止めておくのが賢明だ。

美しい想像は悪くないが、現実昧のない夢想は、現実的にできあがっている頭脳とかみ合わず、シャボン玉のように空を舞ってハジける。頭の働きは、常に現実と不即不離の関係にあり、夢も希望も、一歩間違えると妄想になってしまいかねないのだ。

元々、人は余り当てにならない遠い目標のために頑張ることはできない。「社長に成る」という大きな野望を持つと、挫折感が押し寄せて来る。しかしやや現実味のある「課長に成る」ためだったら仕事に精が出る。それでもまだ元気が出なかったら、せいぜい数日以内にできること程度に達成目標を下げる。「今日中にこの仕事のめどをつけよう」「会議までにデータをまとめておこう」などの小さな目標なら、それほど苦労しなくともやってのけられる。

頭脳は、実現可能な小さな目標に向かっているとき、初めてフル回転するのである。オリンピックに出場するという大きな夢を実現させた人もいる。しかしそれは、夢をかなえたのでなく、日々の地味な練習メニューをこなし、身返にいたライバルを一人一人なぎ倒していった結果に過ぎず、「大きな夢を実現させた、汗と涙の感動物語」ではない。

射程圏内にある当面の望みに向かっていると、焦燥や不安から解放される。身近な目標は実現が可能である。といってもベストを尽くさねば、そのどれも実現しない。このような心地よい緊張に触れていると、いつもフレッシュな気分で、頭も最高状態になれるのだ。