最近先進諸国で、近代医学を支えていたテクノ ロジー信仰が色褪せる方向に向かいつつある傾向は、喜ばしいことです。社会のあらゆる領域で、正統的な医学に対する不満が年ごとに高まり、その欠陥が繰り返し叫ばれるようになってきました。これはアメリカのアンドリュー•ワイル博士の、『人は何故治るのか』の著書に述べられているものですが、現在の日本の医療界についても、そのまま当てはまる事柄です。
医者こそが患者の生殺与奪の権利を持っている絶対的な存在であって、人間の癒しが医者によってのみなされるという誤った考えが流布してしまっているからです。癒しとは本来は、『自然の理』のなせる業であって、医者の役目はただそれを丁寧親切に手助けすることにあります。
現在の医療は、人間の身体を単なる物体として扱っています。そのため高い費用と検査試薬の投与、放射性造影剤の注入、放射線•磁力線の被爆など、非常に危険な方法を使って生体を痛めつけて、数値で現わすことの出来ない個々の心の存在や、その心の状態が如何に生体のコンディションを左右するかをまったく無視する結果を招いています。その上そうして得られた数値に基づいて、毒性を持つ化学薬品を投与したり、疾患部分を簡単に切除したり、あまつさえ臓器を移植したりしているのです。
しかもこれらは病原に対する根本的な処置から逃避していると言わざるを得ません。これらはいずれも対症療法でしかなく、したがって根本的治癒などは望むべくもありません。むしろ大きなリスクを先送りにして、しかも手術によって欠陥を持つことを余儀なくされた肉体は、後日に必ず、それによる症状に再び直面しなければなりません。
さらに、投与される数々の医薬品、そのタイミングや量、それを決定する医者の人体と疾病に関する知識、そして、複数の医薬品を投与することによって起こる人体内部での化学反応の毒性などを考えますと、現行の医療システムは、生体に対する加害者に転じてしまう可能性を秘めているとさえ言えるのです。
テクノロジーに依存し過ぎる危険の多い治療法のみを信頼することにより、身体に備わっている自然治癒力を無視もしくは軽視し、逆にそれに逆らい、自然治癒力を無力化して治癒のチャンスを逃してしまっています。医学者は、検査機器によって得られたデータをコンピューター解析して、弾き出された実験数値を絶射なものとして、総べての判断の基礎の証明としています。これは、考えてみれば解ることですが、生きている人間を扱う医学では、人体に対してクリーンな実験などできるわけがありません。病者と検査数値は、特定の時間における、特定の身体的条件を持った、特定の個人の生体の流れの中の一瞬間の数値でしかありません。そして、同じ人と言えども二度と同じ条件にはなり得ず、従ってデータから得られた条件・数値の最大公約数の画一性は、個々の多様性との間に問題が潜んでいます。