自己と言う概念も記憶に依存していると考えられる。現在、記憶の真の貯蔵庫が脳の何処に在るのか、よく分かっていないが、記憶の形成過程で重要な役割を果たしている部位として、側頭葉の奥深くに在る大脳古皮質の「海馬」に多くの学者の興味が集まっており、海馬の機能をめぐって活発な研究が進められている。
てんかんの治療の目的で、左右の海馬領域を外科手術で切除すると,患者は、手術以後の新しい事柄を記憶出来ない前向性健忘症になる。このことから海馬は記憶に密接に関係していると考えられるわけだが、最近、動物に記憶テストを行い、その際の海馬ニューロンの活動を記録する方法によって海馬の機能が次第に明らかにされつつある。
例えばラットが迷路の中をあちこち自由に探索する時、ある特定の場所に来た時にたけ活動するニューロンを見出し、これを「場所ユニット」と名付けているが、これは海馬が空間的記憶に関与していることを示唆している。
また海馬は、新しく脳に入って来た情報を一時的に保持して、それが記憶として安定に貯蔵されるまでの過程を管理する装置であろうと推測されている。記憶の貯蔵庫が在ると推定されている大脳皮質連合野と海馬との間に神経結合の在ることが見出されている。
脳の研究が進み、脳の働きが完全に解明された場合、人間の精神機能は結局物質現象に還元されてしまうのか?という危惧感を持つ人も居るだろうが、人間の精神は、言葉というものを軸にして長い間にわたって蓄積された知識、つまり文化を背景にして成り立っており、脳の働きだけでは説明しきれない非常に豊かな内容を持っているので、これは単なる物質現象のみに還元できる性質のものではない、と考えられる。
現在、色々な精神病を治療する向神経薬が開発され、電気刺激による精神病治療法も見出されているが、将来の技術的発展で、脳の働きを薬や物理的方法によって操作することも可能になるであろう。このような脳の操作に関連して、ここ数年話題に成っているのは、脳組織の移植という問題がある。
もちろん未だ動物実験の段階だが、機能の衰えた脳に正常な脳組織の一部を移植すると、機能が或る程度回復するという実験結果は報告されている。例えば脳の前頭葉に障害を与えた大人のラットは判断力が鈍り、「迷路実験」でゴールに到達出来なくなるが、このラットに胎児のラットの前頭葉から採った脳細胞を移植すると、完全に元に戻らないものの、学習能力は或る程度回復する。このように動物の脳細胞移植の実験が進むと、将来は、人間の脳疾患のかなりの部分が細胞移植によって治療することが可能に成るかも知れない。
ただし人間の場合には、動物と違って、胎児の脳細胞を用いるわけには行かないから、組換えDNA技術などによって、それに相当する細胞を造り、それを移植するという方法、あるいは細胞でなく有効な因子を与えるというような方法がとられると思われる。しかし、人間の生と死の問題として、生命科学、医学、医療技術の進歩を考えると、人間の生命の尊厳に関わる様々なものが考えられる。