新しい遺伝学はそのもっと深いところで、新しいタイプの社会への設計図を作り出すかもしれない。同時に、遺伝的検査は、私達に雇用主や保険業者の権利に対抗する、個人の権利の再考を強く求めている。遺伝的検査が職場に導入されると、現在の段階では検査の結果が雇用の拒杏につながるだけだから、取り扱いに慎重を要する問題が持ち上がる。ある種の遺伝的な欠陥はある特定の民族集団に多い(鎌状赤血球貧血が黒人に多いことがもっともよく例に引かれる)ので、このような欠陥に基づいた差別は人種差別に陥りやすい。事実、遺伝的疾患を持っているということになると、その個人は特別な一連の医学的状態を示す特別な体質であるがゆえに、少数派となる。問題は、ヒトゲノムの完全な地図ができるまでは、どのような職でも、それに最適の人間が就くという保証がないことである。その上、現在の検査法では、ある個人について少数の有害な体質があることを確かめられるだけである。将来に向かっては、仕事がよりうまく行くような素質を示す遺伝的体質を見つけるようにしてはどうだろうか。遺伝的検査は、生命保険会社が保険料や保険への加入をコントロールするために、非常に待ち望んできた方法となるだろう。家族と個人の医療歴に基づく差別は既に行われて来た。もし全ての状態を予見できるならば、生命保険業者は全ての個人に対する料率を調整する必要が出てくる。
一方、もしあらゆる人が遺伝的分析を利用できるならば、生命保險会社は不利な選択に遭遇することになるだろう。つまり健康や生命に関して広範な保護を得ようとするのは、そのほとんどが高い危険性を持つ人々だからである。
遺伝子治療も大きな論議の的となっている。私達は生殖細胞(ここでのDNAの修正は子孫に伝わる)に対する治療と、体細胞に対して行われるものとをはっきり区別する必要がある。何人かの科学者によると、生殖細胞(または卵や胚)での遺伝子治療は、治療法がないか、または異常細胞に手を加えることが難しい多くの遺伝的疾患を根絶する、手際のよい効果的な方法であると言われる。しかし現在は生殖細胞のDNA操作は禁止されており、ヒトゲノムを永続するような形で修正することはできない。
体細胞遺伝子治療については、これと提供者の細胞(その遺伝物質とともに)を体に導入する臓器移植との間に基本的な差はない、と多くの研究者が論じている。この点、つまり職器移植が生体に外来DNAを導入することに相当するというのが、まさに遺伝子操作を中傷する人の主な非難の言葉である。
体外受精の役割が大きくなっているので、人々は子孫に伝達できるようにDNAを修正操作するという誘惑にますます抗しがたくなるだろう。体外受精、つまり母体の外での受精は、不妊と戦う革命的な方法である。体外受精では一つの卵しか必要としないのに、研究室では数個の卵を受精させる。移植用の受精卵以外の受精卵は検査に使う。つまり、それらを培養して、DNAに異常があるかないかを調べ、特に問題がなければ、移植用の受精卵を実際に移植するのである。
しかし、移植する受精卵の遺伝的性質を思うままに修正することが、いつの日か適切な方法によって可能になれば、献立表通りの赤ん坊をこしらえるという誘惑はなお残ることを知っていなければならない。新しい遺伝学が持つ意味を評価するには、二つの概念をはっきり分ける必要がある。つまり知識の獲得と、この知識の利用とである。誰も知識の獲得を止めることはできないし、その利用に関して心配が生じるのは当然だが、現在の研究努力を妨げるべきではない。しかし、この方法の実用化は厳重にコントロールされるべきであろう。